アラフィフぴーちゃんのるんるん日記♪

私のとりとめのない日常を綴っております。20歳年下の彼氏とのやりとり、お片付けの話し、大好きな映画や本の話し、などなど。

Apr/4th/2020 さよなら、志村けんさん。

 

 

 

 

 

こんにちは。

私、ぴーちゃん。

 

 

 

 

3月29日にコメディアンの志村けんさんが亡くなった。

私は1970年生まれ。

志村けんさんが所属していたザ・ドリフターズが出演していた「8時だよ!全員集合!」は私も大好きで毎週土曜夜8時に必ず観ていた。

 

小学生のときには月曜日になるとみんな土曜日に観たドリフのマネをしたりしていた。当時はそれくらい影響力のある番組だったのだ。番組の中で一番人気があったのが志村けんだった。

 

 

今日たまたま録画していた番組を観ようと思ったら、録れていなかった。代わりに金スマ志村けんさん追悼番組」が録画されていた。急遽番組が変更になったのだろう。

 

残念ながら、番組は後半分しか録画されていなかったのだが、それでも十分見応えがあった。

 

TBSの「8時だよ!全員集合!」は1969年から16年も続いたのだそうだ。私はリアルタイムで観ていたにもかかわらず「へ~そんなに長くやってたんだ?」と驚いた。番組が終わるとどめを刺したのは裏で放送されていたフジの「俺たちひょうきん族だった。私も「全員集合!」からひょうきん族に移行した人間なのでその時の「全員集合」が衰退していく感じをすごく覚えている。子供ながらに「浮気して申し訳ない。でも、こっちの方が面白いんだもん」みたいなことを思っていた。

 

そのことについて金スマ志村けん「何で、面白い番組同士を同じ時間にぶつけて喧嘩させようとするんだろう?時間をずらして、どちらも楽しんでもらえばいいじゃないか、と思っていた」と語っていた。確かにそうだ。昭和は弱肉強食みたいなオラオラな空気感があったもんなぁ。

 

時代も平成に移り変わり、少しずつ笑いのスタイルも変わっていった。例に出して申し訳ないのだが、昭和に「ナハ!ナハ!ナハ!」のフレーズで人気があったある芸人いる。その人が(昨年だったかな?)久しぶりにバラエティ番組に出ていた。すると、彼は完全に全盛期の自分を引きづっており、リニューアルもしていなかった。それにも関わらず「もう一旗あげたい」と言う。出演者の芸人たちも1mmも笑っていなかった。変われない自分を認められない彼がとても不憫だった。

 

昭和~平成~令和にかけて第一線で走り続けて来たコメディアンたちはその時代ごとに新しい笑いを提供してきたのだ。そういう人たちは先見の明がある。きっと「このアイデアはいける!」と何かが降りてくるのだろう。

 

志村けんもそういうコメディアンの一人だ。ただの面白い人ではなくて、しっかりとリサーチし、構想を練りに練って番組を作ってきた。

 

ここまで彼の功績を讃えるようなことばかり書いてきたが、ここからが私が本当に言いたいことだ(笑)。

 

私は学校で面白いことをする人気者だった(自称だがw)。そしてその時の私のギャグの一つが志村けんのモノマネだった。そのギャグを人前で披露すると100%受けた。

 

当時、私はよく「ぴーちゃんは顔が志村けんに似ている」と言われていた。「そうかなぁ?ひょっとして、いつも志村けんの顎をしゃくる顔真似をしていたからか?」私は志村けんのギャグは好きだったが、顔が似ていると言われるのは不本意だった。女の子だったし。

 

今、考えると人前で変な顔真似やギャグをやるなんてとても恥ずかしいが、あの頃の私はみんなに喜んでもらえることで精神のバランスをとっていた(少し変わった家庭で育ったので)。おかげでグレずに済んだのだ。

 

それに志村けんのモノマネばかりしていたので、顔の筋肉がとても鍛えられ今でもパーツがよく動く。しかも顔筋が柔らかいのでシワも出来にくいのだ。本当に本当に有り難い(笑)

 

志村けんは沢山の人を楽しませてきた偉大なコメディアンであったが、一人の少女(今はバリバリのアラフィフ)を違う形でも救ってくれた。

 

 

 

 

またあなたの昔の動画を観て、懐かしみながら顔の筋肉を鍛えたいと思います。

ありがとうございました。